初めて会ったのはいつだっただろうか。
 秋山隼人に出会った時、本当にその頃の自分は荒れていてどうしようもなくガキだったと思う。



 小さな葬式だった。
 自分一人しかいない。
 父親は幼い頃に喪った。幼かった自分にはその葬式がまるで奇妙な儀式のように見えた。死んだ父親を弄ぶかのようなその姿に自分は恐くて母親に縋りついた。
 どうして、父ちゃんをどこにつれていくの。
 そう泣いた自分を母親は自分よりもつらそうな顔をして見つめていた。
 抱きしめられた自分の体は温かっただろうか。解らない。
「ごめんね、はるな」
 あの言葉どういう意味だったのだろうか。
 解らない。
 けれど、約束した。
 父ちゃんと約束した。
 だから守らなきゃならない。



『かあちゃんを、たのむな、はるな』



 撫でてくれた手は大きくて暖かった。
 大好きなあの手はもう自分に触れてくれない。
 辛いけれど、しょうがないと自分に言い聞かせた。
 母ちゃんが笑っていられるように自分は笑おう。
 泣いたりしない、苦しい事があってずっと笑っているから、だから笑って母ちゃん。
 オレ、頑張るから。
 馬鹿で、留年しちゃったけど頑張るから。
 母ちゃんが希望する通り、今年こそちゃんと三年生になって、その次はちゃんと卒業するよ。
 だから、安心して。
 安心して。



 そう言いたかったのに。


 言いたかったのに、どうして自分はこうなんだろう。
 


「若里、どうするの」
 全部終わって、結局単位も全然とれなくて今年は退学するか足掻くのかと聞かれた。
 けれど、今の自分は学校を通う意味がなかった。
「……退学、します」
「そう」
 納得したような教師の顔は残念というよりは厄介払いができて良かったと思ったからだろう。安心したよな顔をしていた。
 これからどうするか、と思いながらもいっそ死ねたらどんなに楽だろうかだなんて以前の自分ならけして想いはしなかった事を考える。
「……」
 どうでもよかった。
 よく、しにたいだなんて口に出すのは酷いとか、生きたくても生きられない人もいるのにだなんて言う奴がいるけれど、そんなのは自分の心に余裕がある人間だけだ。
 人の心のうちだなんて誰にも解りやしない。
 他人にとってはどうでもいい事が自分の励みになったり、歓びになったりする人間だっている。それを奪われれば生きている意味がない程に辛い事なんて解らない。
 大切な人が死んだなら、その人の分まで生きなきゃいけないだなんてそんなの勝手な美談だ。
 無理やりいい話にしようと思っているだけだ。
 本当にその相手が大切すぎてどうしようもないなら、だってその相手が死んでしまったら息の仕方すら忘れて生きていられなくなると思うのは間違っているというのだろうか?



「……」



 それでも自分の体は生きろと命令し続ける。
 食事をとらないでいようとしたところで腹は減るし、何も考えたくなくて働き続けたところで体にガタは来る。
 自分の体は無理やり自分を生かそうと必死だった。
 仕方ないので最低限の飯を食べて食事をとる。
 適当なものでいいから食べれば腹は膨れるし、高校なんて行かなくてもバイトのシフトを増やせばそれなりに生きていけるのだと知った。
 纏まったお金は手に入ったがこれを使ったら最後、だめになると思った。
 大切な繋がりを失ってしまう気がした。
 だからそこに手をつける事だけはしなかった。
 とにかく必死で働けばなんとかなる。どんなに死にたくても死ぬ事は父ちゃんと母ちゃんに失礼だということくらいは解っていたので自分は生き続ける事に必死だった。
 息をして、手足を動かし、ある程度食事をして、ある程度寝て、仕事を必死にして、明日を迎える、その繰り返しをすればいい。
 死なないことなんて、簡単だった。



「……」



 そんな日々の中だった。
 彼に出会ったのは。
 ぶっちゃけ第一印象は最悪だった。
 別にそいつが、ハヤトが何かをしたというわけじゃない。
 ただ、眩しすぎたんだ。
 ハヤトが。
 


「……あ、あの……」



 それはたった90秒にも満たない邂逅だった。
 自分の一生の中でいずれ記憶に薄れてしまいそうな、そんなどうでもいいものだった。
 それでも彼の存在が自分の頭に引っかかったのは彼の着ている制服が少し前まで自分も着ていたものだったからだ。
 馬鹿だ。
 真面目に勉強していればもうとっくに卒業してたのに。
 そんな事を思いながら、自分の服の裾を掴んだ相手を見つめた。
 茜空から夜空へと変化する時に見える薄桃色の瞳が自分を見た。




「何?」



 綺麗なものしか見てこなかったであろうその眼が気に入らないと思った。
 発した言葉は自分が思った以上にとても冷たいもので、その声で相手は怯えるかと思ったけれどそれでも相手は戸惑いながらも笑った。



「これ」
 差し出されたそれは自分の家の鍵だった。
 でも、そんなのはどうでもよくて、問題はその鍵についてるキーホルダーだった。
「落としましたよ?」
「あ……」
 ドーナツのキーホルダー。
 ところどころ色が禿げているそれは年季が入っているけれど自分にとっては大切なものだった。
「……ありがとう」
「いいえ」
 にこりと笑うその顔。
 悪気はないと知りながらもイライラしてて、聞かなきゃいいのについ聞いてしまう。
「……その服、城南第一高校だよな?」
「はい、えっと……知ってるんですか?」
「あ……」
 知ってるよ、だって……
「あ、もしかして卒業生なんですか?」
「……いいや、オレは」
 一呼吸おいて、言わなくていいのに言ってしまった。
「……今年の四月、中退したんだ」
 でも仕方ない。
 だって、知ってるに決まってる
 少し前まで自分だってその高校に通っていたんだ。
 そして、本当なら今年こそちゃんと三年にあがって―――そう信じていた。
「悪い」
「あ……」
 でも、出来なかった。
 無理だった。
 頑張るのが遅すぎた。それを言い訳にしていいわけじゃないけれど、それでも目の前の眩しい少年を見るのは辛くて、自分は逃げた。
 こうなりたいと思っていたものを見せられてけして自分がなれない現実を思い知って平気でいられる人間なんているわけがない。



 どうして自分はこうなんだろう。
 そう思ったところで過去には戻れない。
 でも、未来へ生きていくのも辛い。


 自分は今、どうやって―――息をしていけばいいんだろう。





  「……そっか、だから……」
 きっと彼は出会った日の事を覚えていないに違いない。
 それでも良かった。それでも、確かめたかった。あの日の彼が目の前の人だという事に。
「……春で、中退……」
 俺は言われた言葉を思い出した。
 駅のホームにまたもや列車がやってくる。
 俺は風に吹かれながら思い出していた。彼のつらそうな顔を。
 でも、俺が初めて見たのは、間違いなく笑顔の―――



『何してるんだ?迷ってるの?』


 忘れられないあの時の―――



「……」
 また会えないだろうかと思って、いつも彼が乗る列車の車両を探す。
 けれど、会えなかった。
 もしかすると今日はいないのかもしれない。
 俺は昨日の彼の姿を思い出して少しだけショックを受けながら学校へ向かう。
「……」
 中退。
 今年の春。
 知っている人はいるだろうか。そう思いながら早く来すぎた部室。
 こんな気持ちじゃダメだと思ってギターを手にして、ノートを広げる。
 だが、新曲を作ろうと思ったものの、ノートはすでに全て埋まっており新しいものを買おうと思っていたのを思い出した。
「……うぅ……どうしよう……」
 俺は部室をぐるりと見渡してとりあえず、部室の中にいくつか使ってないノートがあったなと思いだして本棚の前に立つ。
 なんでもいい、とりあえず何か書くものがあれば、と思って緑色の新品のノートを取り出そうとする。だが、同時に隣にあった何かまで一緒に飛び出て床へと散らばってしまった。
「あ……」
 しまった、と思ってしゃがみこむと俺は信じられないものを見た。
 そこにあるのは今よりも幼い顔つきだけれど、確かに整った顔つきのあの人で。
「……うそ」
 先輩だろうか、何人もの男性に囲まれて可愛がられているその姿は今とは似ても似つかないもの。
 信じられなくて震える手で写真を手にした。
 裏返して見るとそこには、3年前の日付と『若里春名入部』と書かれた文字。  


「……わかざと、はるな」


 呼んだその名前はまるで好きな味を舌で転がすような甘さがした。
 綺麗な名前だなと思った。
 秋山隼人。
 うーん、なんて変哲のない名前だろうか。
 若里春名。
 ……おんなじ7つの音なのにどうしてこうも違うんだろう。自分で思って少しだけショックを受けつつも、自然と頬を緩ませていた。
 こんな顔、もっと見たいと思った。
 もう二度とあの時のような笑顔を見る事は出来ないかもしれないけれど。


 そう思っているとチャイムの音が鳴って、慌ててギターを片づけて俺は教室へと走り出した。  


「……」
 先生を待っている間も頭の中は若里さんの事ばかり考えていて。
 彼も軽音部にいたということは楽器をやっていたということで、何の楽器だったんだろうと考える。
 もしかしたら俺と一緒のギターだったのかもしれない。
 うん、似合う。
 でも、意外にキーボードかもしれない。旬とどっちが上手いんだろうか。
 イケメンだし、夏来と同じベースかもしれない。
 だとしたらベースはイケメンじゃないとなれない楽器なのかな。
 それとも―――


 そこまで考えて自分達High×Jokerに空いている楽器。
 ドラムをやっている彼を思い浮かべて俺は凄く似合うなと思った。
 もしかしたらドラムをやっていたのかもと思ったら心が弾んで、同時に少しだけ悲しくなった。けれど、自分達が活動していた1年間彼は一度も軽音部訪れなかった。
 だとしたらあんまり音楽が好きじゃないのかもしれない。
 いいや、でも嫌いだったら軽音部なんて入ってないだろう。でも、だとしたらどうして―――
「……」
 そんな事を思いながら、頭の中で旋律が流れはじめる。
「……」
 俺はそれを追いかけるかのようにノートにペンを走らせる。ドラムはない。けれど、あったら―――そう思いながら、彼がもしも忘れているならもう一度音楽を好きになってほしいと思いながら書き続けた。



「……ジュン!!」
「ハヤト、どうかしたんですか」
「新しい曲が出来たんだ!!」
「……え」
「これっ!見てみて!どうかな??」
「どうって……」
 一時間目から四時間目が終わるまで授業を受けながらとにかく書き続けたそれ。
 どうだろうかと思いながらチャイムが鳴ると同時に進学クラスにいる旬の元へと飛び出すように走っていくと案の定驚いた顔をした旬に勢いよく渡したせいか訝しげにノートをしげしげと見られていた。
 それでも俺は今回はちょっとだけ自信があって感想を待つ。
「……」
「ど、どう?」
「……悪くはないんじゃないですか」
「ほ、本当?」
「ええ、編曲してみましょうか」
「ありがとう、ジュン!」
「……」
「ちょ、ちょ……ハヤト!!ナツキも見てないで助けろよ!!」
「……楽しそう……いいな」
「ナツキ!!」
「……シキ、喜ぶね」
「そうかな?」
「うん……ハヤトの曲、大好きだから……」
「えへへ、そうならうれしいな」
「……オレも…」
「うん?」
「オレも……ハヤトの曲、好き……」
「ありがとうな!ナツキ!!」
「……」
「……ハヤト、いい加減離れて下さい……」
 別クラスでそんな事をしながら、もしも一年前に会ってたらこんな風に若里さんも騒げたのだろうかと思って少しだけ残念だと思った。
 それじゃあ放課後、と言いたかったものの、俺達のボーカルはそんな日に限って小テストの追試になってしまったようだった。
 三人で練習でもしようかと話したものの、それよりは新曲の編曲をしたいと旬は言って家に帰るといい、夏来もいつものようにくっついて帰ってしまった。
 こうなると仕方ないので俺もギターを担いで帰りの列車に乗る為に駅へと向かう。
「……」
 その途中にあるドーナツ屋。
 いつもなら通り過ぎるその場所だけれど、昨日若里さんが持っていたキーホルダーを想いだして足を止めた。
「……」
 もしかしてドーナツが好きなんだろうかと思い、だからどうということじゃないのだけれど、俺はなんとなく店の中に入り幾つかのドーナツを買った。
 甘いその匂いはどこか幸せを運んでくれるだった。
 そして今度こそ駅へと向かい、適当に乗った列車。
 そこに何かのいたずらかのように今日も、彼がいた。
「若里さん」
「……え」
 名前を呼べばどうやら本当に彼の名前だったらしく、彼は俺の方へと顔を向けた。
「……どうしてオレの名前……」
「あ……あ、あの、違うんです!」
「え」
 ストーカーで調べたのかと思われたら困ると思い手を慌てて振りながら「軽音部の!写真が!!」というと今度は眼を丸くして「お前、軽音部なの?」といわれた。
「そ、そうです……」
「……そういや、ギター背負ってるもんな……」
「あはは……」
「……で」
 ごまかすように笑うけれど、相手の目つきは鋭くて嫌われているんじゃないかと思うほど冷たい。けれど、そんなのはどうでもよかった。
 それよりも今言いたいことは別のこと。
「……何の用?」
 遠ざけようとしている。
 そう思った。
 俺だってばかじゃない。
 嫌われていたら解るし、嫌がられたら感じる事くらいある。
 でも、そうじゃない。
「……若里さん」
「ん?」
「ドーナツは好きですか?」
「え?」
 なんとなく、そう感じた。
 初めは嫌われているのかと思ったけれど違う。  それ以上にまるで―――何かを恐がっているように思えた。
「………好き、だけど」
「なら、もしよければどうぞ」
「え……」
「なんとなく買ったんです。もしよければ……」
「いや、でも、これは―――」
「貰って下さい」
「……でも……これは、」
「いいんです。お礼だから」
「え?」
 きっと覚えてない。
 それでも良かった。俺は若里さんに向かって微笑んだ。
 どうか笑って欲しいと願いを込めながら。




「……」
 渡されたドーナツ。
 帰ってきてどうするかと思いながらもドーナツに罪はないし、と考えてオレは食べることにした。
「……ん」
 大好きだった筈のそれ。
 でも、食べても味気ない。母ちゃんがいなくなってからこうだ。
 部屋もどこか散らかっていて、風呂に入るのも億劫。部屋だって散らかり放題だ。
 でも人間はそれでも生きられる。
 そう、死ぬ事は出来ないんだと気づいた。
「……」
 捨ててしまおうかと思ったけれど、でも嫌いな相手から貰ったものとはいえなんだか捨てるのはドーナツに悪いからと冷蔵庫へと入れた。
 辛いし、体がいたいから仮眠をとろう。
 夜にはバイトがあるんだから、と布団に潜り込んだ。
「……」
 寒気が感じたが気のせいだろう。
 オレは蒲団をもう一つかけて眠りについた。目覚まし時計は二時間後。
 これで起きれる筈だから、と。
 つかれているせいかすぐに眠気は訪れた。そのまま目を閉じてオレは夢の世界へと一直線に向かった。



「……」
 しかし、眠りの世界にいたのは本当に一瞬で終わってしまい、バイトの時間になる。
 オレは慌てて体を起こしてバイト先へと向かう。
 体が重いが疲れているせいだ。でも眠っている暇なんてあるはずない。少しでもお金を稼いで今の家に居続ける事が大事だ。そう考えてオレはなんとか仕事場へと向う。
 身体を引きずって。
「……」
 地面を踏むとくしゃりと歪むような感覚がした。
 頭が殴られるように痛い。
 辛かった。
 でも、それ以上に安堵していた。
 もしかしたら、自分は母親のところに行けるのかな、と。
「……っ」
 仕事場へ行くバスを待つためにバス停へ座る。
 そして、そのまま自分は意識を手放した。




「兄貴の馬鹿っ!!」
「隼人」
 何でこうなんだろう。
 気分良く帰ってきたのに、なんで些細な事で喧嘩になるんだろうか。
 ギターを手に俺は駈け出した。
 昔はこうじゃなかった。
 カブトムシやクワガタの捕まえ方を教えてくれたのは兄だった。
 優しくて、格好良かった兄。
 それが変わったのはいつからだろうか。
 ずっとあの背中を見続けていて、けして届かない苦しみと葛藤に永遠に捕らわれなければならないんだろうかと思う。
「……」
 とにかく家よりも遠くに行きたくて走った。
「……はぁ」
 どうしよう。
 友達の家、に行くにも旬や夏来の家は遠いし、兄と喧嘩したなど恥ずかしくて言えない。
 どうしよう、とりあえずコンビニでも行こうかと歩き出す。……その時だった。
 コンビニの近くのバス停。
「え……」
 そこに、知ってる顔の人がいた。
「若里さん?」
「ん……」
 どうして…と思っているとやけに顔色が悪い事に気づいた。
 どうしたんだろうと額に手を当てるととんでもなく熱い。
「……っ」
 こんなところに置いておくわけにはいかない、どうしようかと思うものの俺は若里さんの家を知らない。
 いったいどうしたら―――。
「……わ、若里さん」
「……っ」
 そっと揺り動かすけれどまったく動かない。
 どうしようかと考えていると、若里さんの携帯が鳴り響いた。
「あ……」
 どうしよう、と思いつつももしかしたら家を知ってるかもと思い俺は電話を取った。
「は、はい」
『若里!?お前、どうしたんだ??』
「あ、あの、」
『うん?若里の声じゃないな、君は―――」
「あ、えっと、若里さんの知り合い、です」
『なんだ?あいつ遊んでるのか?』
「い、いえ、違うんです。その――」
『うん?』
「今バス停で、若里さん、倒れてて……」
『えっ!?』
 相手に説明すると相手は納得いったようだった。
   相手はバイト先の人らしくて、本当に心配してくれた。
 それから少し考えて本当はしてはいけないことなんだろうけど、俺が知り合いだからなのか若里さんの住所を教えてくれた。
 そんなに遠い場所ではない事を確かめてから俺は若里さんの重い体をなんとか持ち上げて引きずった。
 タクシーを捕まえられたらよかったのだろうけれども手持ちのお金がなかったし、相手にバレたらなんだか申し訳なく思うのではないかと思った。
 途中、若里さんのアパートの住人だという人が助けてくれて二人がかりで若里さんの家へ連れて行けた。
「若里さん」
「ん……?」
「鍵、どこですか?」
「……ん……ずぼん…」
 熱に浮かされているのだろう。
 俺は申し訳なく思いながらもズボンのポケットに手を突っ込んで鍵を取り出した。
 それから取り出してゆっくりとドアに差し込み鍵を開いた。
「……」
 そこで見たのはとんでもない光景だった。
「……うっ」
 何だこれ。
 異様に汚い。
 部屋が散らかっている、という状態ではない。まるでゴミ屋敷のようなその実態に目を顰めた。
「……」
 俺はとりあえず若里さんの部屋の中に入り、蒲団を見つけて横にさせた。
「……」
 それからあたりを見渡すと汚いだけじゃなく、洗濯物や食器も汚いままだという事に気づいた。
 これじゃあ具合がよくなる筈もないとすぐに解る。
「……よし」
 怒られるかも、とは思いながらも俺は放っておくことができなくてそっと立ちあがった。
 一瞬だけ、兄の怒った顔を思い出したけれどもそれを振りはらって俺はとりあえずゴミの片づけをし始めた。




「……」
 とんとんとん、とん、ととん
 包丁の音が聞こえた。
 ぐつぐつと何かをゆでる音。
「……母ちゃん…?」
 そんな、あり得る筈がない。そう思っているのに期待して鈍い身体を起こす。
 すると―――
「あ、起きましたか?」
「……お前…」
「ごめんなさい、勝手に上がって」
 どうして此処に。
 いや、その前に自分はバス停に行ったはずなのに―――そう思っていると全部顔に出ていたのだろうか。夜明け前の空を思わせるその瞳は笑っていた。
「……倒れてたんですよ」
「え」
「若里さん、バス停のところで」
「……」
 そんな馬鹿な、と思ったが確かに体がだるかった。
「……」
「ごめんなさい、勝手なことと解ってたけどバイト先から連絡来て話しておきました」
「お前……」
 勝手なことをと言おうと想いつつ深々と頭を下げるその姿を責める気持ちにはなれなかった。
「……どうしてオレの家解ったんだ?」
「えっと……人に聞いて」
「人に……」
 いったい誰にだろうかと思ったがそれはまぁいい。
 そう思ってると気がつけば部屋がきれいになっている事に気づいた。
 それこそ母ちゃんがいた頃のように。
「……これ」
「えっと、散らかってたから……駄目かと思ったんだけど、コンビニのお弁当とか、ティッシュとかそういうのばっかりだったから……」 「……」
 そりゃそうだ。
 ご飯を作れない自分は適当にたまに買ったコンビニ弁当くらいしか食べるものがなくて、味なんてどうでもいいから安いものを買っていた。
 何を食べたって同じような味しかしないならそれでいい。腹さえ減らなきゃいい、それくらいの考えだった。だから同じようにどこにゴミがあったって構わなくてそのままにしていた。
「……」
「それで、悪いかと思いつつおかゆ作ったんですけど……」
「お前が?」
 そう尋ねるとこくこくと頷くその姿。
「……」
 なんでだろう。
 自分は結構酷い態度をとっている自覚はある。それでも目の前のこいつは平気で笑っていた。自分は何もしていないのに。
「……名前」
「?」
「名前、なんていうんだ?」
「……っ」
 そう尋ねると目の前の奴はとびっきりの笑顔を浮かべて―――



「秋山隼人!」



 名前を口にした。




「この節はありがとうございました!」
「おお、いいっていいって」
「色々大変だったしな…」
「若里、風邪治ったか〜?」
 頭を深々と下げれば、むしろ心配してくれてた同僚たちが頭を撫でてくれた。
 その様子を見ていたのかゆっくりと遠くから近付いてくる姿があった。
「……若里」
「は、はいっ!」
 母親と同じくらいの年齢。
 30代後半から40代前半くらいの年齢に、無駄にガタイが良くて眉間にしわを寄せたいかにも頑固オヤジといった感じの、このバイトにおけるリーダー、つまりは本社の人が近づき落ち着いた低い声で「大丈夫か」と尋ねてくれた。
「え、はい!」
「そうか」
「……」
「とりあえず、今日は帰れ」
「え、でも」
「ちょうど俺も上がりだ、奢ってやるから帰るぞ」
「え、でも…」
「若里〜今日は帰りなよ」
「そうそう、シフトの穴開けないよう調整してるし」
「……」
 彼はオレの身体を掴むとそのままトンボ帰りさせようとしていく。
「どこの店がいい?」
「え、いや」
「とりあえず焼き肉でも喰いに行くか」
「……あ」
 そう言って、リーダーは気を使ってくれたのだろう。車に入るよう促され、渋々中に入れば、そのままオレがめったに入れないような高級焼き肉店へと走らせる。
 時間が時間だけにほとんど込んでなくて、中へと入るとリーダーは適当に注文してオレは「何が飲みたい?」と尋ねられて「オレンジジュース」と答えることしか出来なかった。
「……えっと…」
「若里」
 どうしよう、と思っているとリーダーが話しかけてくれる。
「お前、ここ以外もバイトやたらしてるだろ」
「え……まぁ、そうじゃないと生きていけないし……」
「……少し、シフト減らしたらどうだ」
「え、で、でも……それじゃあ…」
「せめて夜間帯のシフトから日勤に変えたらどうだ、その方が体も休まるだろう」
「……日中は他の仕事してるんで…」
「……ならもっと割のいいバイトを探せ」
「……」
「お前、このままだと風邪なんかじゃなく体を壊しちまうぞ」
「…………オレ、邪魔、ですかね…」
 まるで辞めろと言われているようで少しだけ苦しくなると、「馬鹿、お前は上手くやってるよ」といわれる。
「……」
「でもな、……高校中退で生きていける程世の中は甘くない。通信制でもいい。とにかくお前は高校を出ろ。」
「……けど……」
「お前は、これからも生きていかなきゃならねえんだよ」
「……」
 そう言って、リーダーは真剣な目でオレに語りかけてくれていた。
 最もな意見だと思う。
 でも、オレはそれに素直に頷けなかった。
「……」
 膝に置いてある手を思いきり握り締めていると、「とりあえず食え」とリーダーは肉を焼き始めてくれた。
 これ以上は無粋だと思ったのだろうか、それ以上は何も言わなかった。



 無理やり、2人前の特上肉を食べさせられた。
 美味しい、はずなのに、やっぱりオレは美味しい、とは思えなかった。



「それじゃあな」
「はい」
「若里、体には気をつけろよ」
「……はい」
 家の近くのコンビニまで送い、そこから歩き出す。  



”これからも”



 母ちゃんがいないのに、何でオレの心臓は動いてるんだろうか。
 いっそ、一緒に連れていってくれたら良かったのに。




「……」
 鍵を開き、鞄をおいてそのまま寝転ぶ。
 食事は食べたしどうしようか、と思いながら携帯を取り出して届いているLINEのメッセージ。



『若里さん、ご飯ちゃんと食べましたか?』
「……お前はオレの母ちゃんかよ」
 秋山隼人からラインが来てた。
 何してるんだ、あいつと思いながら『上司に焼肉連れて行かれた』と送れば『本当ですか!?良かった!!』とすぐに返信してきた。
『お前は何してたんだ?』
『今は新曲作ってました!』
『新曲?どんな??』
『あ、これです!』
「お」
 送られてきたデータ。
 クリックするとギターの音が部屋に流れる。



「……」  



 デモなのだろう、秋山の声が音楽に乗せられて聞こえる。
 痛々しいほど苦しくて、でも悲しいのに明るくて、元気になれるのに切なくなる。
 恋の曲だった。
 あの秋山が歌ってるのかと思えるような、曲。
 


「……」  
若里さんの返信を見て心が躍るのが解る。
 同時に彼は覚えてないんだな、という事が突きつけられて少しだけ悲しい。
 一年前の春の事。
 俺には憧れの先輩がいた。
 たった一度だけ、それこそ入学する前に少しだけ助けて貰っただけの、そんな人。
 でも、入学した後、全然会えなくて卒業しちゃったんだと思って諦めた。
 二年に上がって電車で会うあの人を見てこんな偶然があるのかと想った。
 毎日、自分の目の前の電車の席。
 若里さんが眠たそうな目をこすって座っている姿を見ると、その日はなんだか少しだけいい事があるんじゃないかと思えた。
 それくらい特別な人だった。


 けれど、同時に悲しかった。
 あの日、あんなに優しかった若里さんが、冷たい顔をしていたから。
 でもあの日。
 風邪を引いた時、少しだけ戻ったような気がした。
 それからぶっきらぼうではあるけれど、こうやって返事してくれるようになって。
 凄くうれしくて、でも、同時に―――




一体何が彼をあそこまで変えてしまったのか不思議で仕方なくて、隼人は、埋まらない何かを抱えていた。